白と黒とわたしと彼女ともしかしたら彼の狂気 、
わたしの 指 が
連なった鍵を弾く。漆塗りに艶めく黒、エナメルに濡れる白。
鍵盤。弾くたび、零れる音。音。音が連なり、旋律。自由奔放に踊る指、けれど耳には旋律と認識される規則性。
指が憶えているまま、白鍵を踏む、黒鍵を弾く、双方を圧す。紡がれているのは、長い長い曲だ。
ふと
「 ―――――・・違う。 」
彼女が言った。指の動きは止まらないまま、抑揚の無い声に、抑揚の少ない声で答える。
「 何が? 」
「 音律。狂ったわ。 」
最早動かしている意識もなく鍵盤の上を踊る指を見やる。旋律として通用するとされた、その既存の音階をたどる指。
幾度弾いただろう、この曲。頭で間違えようとしても指が間違えるはずもない。
「 あぁ、また。 」
自分の指が奏でる音より、彼女の静かな声の方が不思議とわたしの耳に響いた。激しくもなく穏やかにでもなく、ただ一時も止まらない指を注視する。たどる黒白を見る。わたしは間違っていない。
けれど
「 ――――・・調律が狂った、のかしら? 」
唇から零れたのは、不安にくぐもった言葉。
彼女の言葉の所為かはわからない。けれど、わたしにも、その、正しいはずの指からは紡ぎだされないはずの異音は感じられ。
否。異音、と言うより、違和。
「 あるいはあなたの指が狂ったか。 」
「 いいえ、正しいはずよ。 」
「 あなたのその目も狂っているか。 」
「 ・・・・・・・。 」
「 あるいは、私の耳が狂ったか。 」
楽器よりも綺麗な、故に決して音楽にはなりようのない声が淡々と続ける。同じくらい淡々と、わたしの指は音律を綴る。
「 ・・・でも、わたしも感じた。感じるの。狂いを。 」
「 なら、あなたの耳も狂ったか。あるいは 」
「 わたしたち二人とも、狂ってしまったのかもしれない。 」
「 かも、ね。 」
正しいはずの音階。正しい音階を弾いているはずの指。正しい音階を押さえるのを見ているはずの眼。正しい音を訊いているはずの耳。正しい音を紡いでいるはずのわたし。正しい音を受け止めているはずの彼女。正しい音を発しているはずの洋琴。
「 ・・・きっと、調律が狂っているのよ。 」
「 そうね、後で見てもらわないと。 」
何が狂っているのかわからないまま、それでもわたしと彼女は静かにそう言って、この事を終わりにした。
ぽつぽつとした問答の間も、指はずっと止まらないでいる。
まだ、まだ。この曲は長い。終わりは遠い。
( ――――その調律師も、若しかしたら狂っているかもしれないけれど。 )
ぽつり、心に浮き上がった言葉は、暗い意識の水底に沈めることにした。
きっと、彼女もそうだろう。
End