壁にぽつりと、小さな穴。丸に三角、歪な形。
―――――――この鍵穴は、不思議な鍵穴なのでございます。
覗くたび、其処にはまあ、違う景色。一度として重ならぬ奇怪な様。
古びた木の棚、乾いた草の香。白髪白髭の好々爺。
海のやうに深い蒼が、しだいに透明になってゆく優美な曲線。分厚い縁取り。
金魚鉢には、朱金のドレスの金魚がひぃ、ふぅ、み。
斜陽に照らされ泳ぐカレらのその奥に、やはり液体の入った瓶が数本。
そしてああ、その瓶の中、ワタクシを睨み据えたは―――虚ろな蛇の、金色の瞳!
あぁ、あれは思えば薬屋だったのでせう。
紅い灯火、緑の酒。
仄く馨る白粉に、甘くすえた華の色。鮮やかな衣の女達。その足首に付けられた鈴。まあ、嫣然と笑む紅唇の妖しさよ、切なさよ。
散りきる間際の牡丹のやうな、泥中に咲く蓮のやうな。
染められた爪。男を引き裂き喰らう鬼女のやうな。
ちりちりちりちり、鈴が啼く。
あぁ、あれは思えば遊里だったのでせう。
ほかにも、ほかにも。
数え上げればキリが無い。
祭囃子に橙の提灯。鬼面に隠れた小柄な童。
ねぇねぇ、アナタ。その面を取ったら、アナタはホントにアナタか知ら?
ワタクシの声は届かったけれど。
雪原に椿。ぽつり、ぼたり、赤い椿。
音すら雪に食われた山深く。
ねぇ、ワタクシが遠目に視たそれは、若しかしたら雪に散った血ではなかったか知ら?
嗚呼、巡り、廻り行く奇怪な風景。空恐ろしき光景。美しきものたち。
果て、歪穴の手前、此方側はどうなっているのかですって?
分かりませぬ、分かりませぬ。
だって、此処は真暗で、ほら、鍵穴から差す光すらなければ、ワタクシはこの手すらも見えないのだもの。嗚呼、白い手。奇麗な手。ちゃんと動かすこともできる。ただ、その関節がむき出しになっているのが残念だけれども。
小さな箱の中に、ワタクシはずぅっと独り。
鍵穴から覗く世界はいつも輝いていると言うのに。ワタクシはいつもそれを眺めるだけ。
ああ、いつか誰かが此方を覗き込んでくれないか知ら。
いつか、誰かワタクシを出してはくれないか知ら。
――――――古びた桐の箱の中で、ごとり、と微かに物音が鳴った。